「コンフォート原則」が一番賢いお金の使い方。

人間,稼げるお金には限りがある。
だから,お金は有効に使いたい。
賢いお金の使い方として,「コンフォート原則」がある。

コンフォート原則
「コンフォート原則」というのは,『毎日長い時間使うもの』にお金をかければ,満足感を得られる。
だから,それこそが本当に賢いお金の使い方ではないか?という考え方である。

お金をかけるべきか迷った時に,そのお金をかけようとしているものが,
「贅沢なもの」なのか「合理的な買いもの」なのかを判断する手掛かりになってくる。

 

私の場合,

一日中パソコンで作業しているので,
パソコン関係のものにはしっかりお金をかけた。
音楽を聴くヘッドフォン,スピーカーも良いものを。
また,長時間座っているので,椅子も良いものを買った。
しかし,あまり出かけないので,外に着ていく服は高価なオシャレ服ではなく,普遍的なデザインの安い同じような服を必要最低限のみ買い,衣服にかける出費を抑えている
一日のうち,だいたい短いときで5時間長いときで10時間ほどは,寝ているので布団や枕,パジャマも寝心地の良いもの買った。
しかし,特別な日以外は贅沢な食事する必要がないから,簡単な粗食で済ます。
・・・のような感じである。

 

「一年間で数回しか使わない」,「一生のうちに一度だけ」のものにお金をかけるよりは,
『毎日長い時間使うもの』にお金をかけたほうが,生活の質が向上していくでしょう。

みなさんも,コンフォート原則を自分の生活に当てはめてみて,
『毎日長い時間使うもの』にお金をかけるようにしたほうが,幸せに暮らせるのではないだろうか?

 

時間とお金を換算するという考え方。

よく,「時は金なり」と言うけれど,時間を無駄にすることは多い。
自分の時間をお金と換算してみると,時間を大切にしようという気持ちがわいてきて,より意味のある時間を過ごせるので,
時間とお金を換算するという考え方をご紹介しよう。

 

例えば自分が,時給900円のアルバイトをしていると仮定して考えてみよう。
労働時間ともらえるお金について計算してみると…

1時間で900円
10分にすると,150円
5分にすると,75円
1分にすると,15円
5秒にすると,1.25円
1秒にすると,0.25円

 

だから,極端な話だが,計算上は,
アルバイトしている時に,何もせず呆けていても,4秒間過ごすだけで1円生み出したことになるわけだ。

 

これを,普段の生活とアルバイトをしている時間を対比させて考えると,
何もせず呆けていたら,4秒間過ごすだけで1円のお金を無駄にしたことになる
もしその時間を労働していれば,1時間で900円を生み出せたからだ。

慣れない人が,普段の生活全てにおいて,「時間対お金 換算」をすると息苦しくなってしまうかもしれない。
しかし,日々の時間を過ごす中に,
「今から過ごす10分は,労働していれば150円を生み出せた時間だから,150円分ぐらいは価値のあることをしよう。」
「この1時間は900円払ってでも寝たい1時間だから,1時間きっちり寝る。」
という,ような「時間対お金 換算」の思考を,多少は取り入れてみるのもどうだろうか?

 

「時間は限られているのだから、誰かの人生を生きて無駄にしてはいけない。
こうあるべきだという既成概念に囚われる事は、他の人間の考えに従って生きているのと同じだ。」by スティーブ・ジョブズ

 

人生という限られた時間で,自分のやりたいことをするには,やることとやらないことをきっちり分ける必要がある。
その中で,「時間対お金 換算」の考え方は,効果があるのではないだろうか?

「時間対お金 換算」の思考で,自分らしく自分の時間を使えるようになるといいですね。

仏教の「三毒」とは何か?

仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩のことである。
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の3つであり、三毒とは,煩悩を毒に例えたものである。

 

 

貪(とん)は,貪欲(とんよく)ともいい,むさぼり,必要以上に求める心のこと。
一般には「欲」,「ものおしみ」と表現される。

瞋(じん)は,瞋恚(しんに)ともいい,怒り,憎しみ,妬みの心のこと。
一般には「いかり」,「にくい」と表現される。

痴(ち)は,愚癡(ぐち)ともいう。愚痴,真理に対する無知,おろかさの心のこと。
一般には「おろか」と表現される。

 

三毒は人間の諸悪・苦しみの根源とされているのだ。

 

しかし,貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の3つは,連鎖的に発生しまうことがある。
(とん)つまり,欲を必要以上に持つと,お金が欲しい,地位が欲しい,人に好かれたいという気持ちが増大する。
しかし,大きくなった欲はそう簡単に満たされない。だから,(じん)つまり,怒り,憎しみ,妬みの気持ちが出てくる。
そうして怒っているうちに,(ち)つまり,愚痴っぽくなり,正常な判断ができなくなり,愚かなことをしてしまうのだ。

また,貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の一つを持つだけでもなかなかにつらい。

克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩(毒)。
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を大きく持っていると生きるのが非常に大変だ。

自分自身を見直して,自分の心の三毒を無くしていけるといいですね。

「何事もほどほどに」の気持ちで,ゆったり生きていこうじゃないか。

三つの毒を捨てなさい

三つの毒を捨てなさい

言わなくてもいいことを,言わないでいる技術。

言わなくてもいいことをしゃべり,自分の価値を下げる人は多い。

まさに,「覆水盆に返らず」

政治家,芸能人だけでなく,友人,いや,そもそもあなた自身が,言わなくてもいいことを言ってしまう人かもしれない。

 

言わなくてもいいことをしゃべるタイプの人はおおきくわけて5種類いるそうだ。

自信過剰型,瞬間湯沸かし器型,八方美人型,饒舌型,うっかり型だ。

自信過剰型は,断定的な物言いが多かったり,相手の発言をさえぎったりする。

瞬間湯沸かし器型は,自分の気分が悪いときに暴言を吐いてしまったり,弱みをつかれると、カッとなってしまう。

八方美人型は,いつもは相手の話に合わせているが,リラックスすると,警戒心がゆるんで思ったことをそのまま口にしてしまったり,人前で話すと,アガって失言が飛び出しやすかったりする。

饒舌型は,知っていることはすぐに口に出して喋ってしまったり,おだてにのって,いい気分で喋ったりしてしまう。 

うっかり型は,思いつくと、よく考えないで喋り出してしまったり,その場をとりなおそうとして,結局余計なことを言ってしまう。

これは,現実の言動だけでなく,SNS上での発言も含まれる。
酔った勢いで,変なことをTwitter上に書き込んでしまって,信用を落としたり,他人を傷つけたりする。

その人の人となりというのは,大体その人の話す内容で伝わってくるのだ。
だから,話す内容に「言わなくてもいいこと」を盛り込んで話す人は信用されないし,好かれないだろう。

自分がどのタイプであるかをきちんと認識し,
言わなくてもいいことを言わないでいる技術を身に着けることは大切だ。

私自身にそう言い聞かせつつ,この技術をきちんと身に着けて,日常生活で実行していきたく思う。

あなたの話し方はなぜ相手を怒らせるのか

あなたの話し方はなぜ相手を怒らせるのか

  • 作者: 植西聰,しりあがり寿
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2013/02/16
  • メディア: 単行本
  •  

物そのものの価値に対する考え方。

今日は,私の「物そのものの価値に対する考え方」について書いてみよう。

まず,物の価値には大きく分けて「表面的な物の価値」「内面的な物の価値」の二つあると思っている。

 

 

「表面的な物の価値」とは,その物が高級ブランド品である,有名なデザイナーが作った,等々の誰から見ても分かるような金額,他人軸で決まる価値である。

「内面的な物の価値」とは,自分にとってその物が使えるか?使えないか?誰から見ても分かるわけではない,自分軸で決まる価値である。

 

物を買うときに,そのものが「高級ブランド品である」とか,「有名なデザイナーが作ったものである」とか,「安いから」,「見た目が良かった」,誰から見ても分かるような金額面,他人軸で判断する人は多い。

 

しかし当たり前のことだが,大切なのは,その物を使う自分自身なのである
ブランド品とか,値段ばかりを考え,「自分にとって必要であり,自分にとってその物が使える物か?使えない物か?」をきちんと自分軸で判断できずに買い物をしていると,いつまでも本当に自分にとって必要なものや使えるものは手に入りません。だから,結果として,満たされません。

 

昨日書いたブログ,[物の片づけに対する価値観と考え方]

において,「すっきりと片付けることで,快適に暮らす」と書いたが,

「快適に暮らす」を達成するには,「すっきりと片付ける」と同時に,必要以上に家の中に物が入ってこないようにすることも大切です。

そして,その物が必要かどうか,使えるかどうかの価値判断は,「表面的」に考えるのではなく,「内面的」に行う。

つまり,自分軸で決定された価値基準によってなされるべきであります。

それはもちろん,あなたの人生は,あなたの人生であり,誰かの代わりを生きるために存在する人生ではないからです。その物が必要かどうか,使えるかどうかの価値判断を他人軸で行っていては,あなたの人生をあなた自身が生きていることにはならなくなってしまいます。

あなたの人生をあなた自身が生きていくためには,「表面的な物の価値」にとらわれて「内面的な物の価値」を見失ってはいないか?を今一度考えるべきかもしれない。

まずは,物そのものの価値に対する考え方を,他人軸から自分軸へ。

物の片づけに対する価値観と考え方。

価値観
何に価値があると認めるかに関する考え方。
価値(善・悪、好ましいこと・好ましくないこと、といった価値)を判断するときの根底となるものの見方。
ものごとを評価・判断するときに基準とする、何にどういう価値がある(何には価値がない)、という判断。
Wikipediaより)

人々の抱いている価値観が多様であることは自明の理だ。
こと,「物の片づけに対する価値観」は多岐にわたるうえに生活に直結する価値観である。

すっきりと片付いたほうが良い,物が少ないほうがいい」と考える人もいれば,
物はたくさん持っていたい,物は多ければ多いほうがいい」と考える人もいる。
親子間で物の片づけに対する価値観が大きく異なると悲劇である。

親が必要だと思う物でも,子供にとってはゴミにしかみえない。ということになる。

そうなると子どもは積極的に,親の物の片付けようとするのですが,親に抵抗され,往々にして捨てられず,(捨てさせてもらえず) 片付きません。

そして挙句の果て,喧嘩になる。

「どうせ使わないんでしょ」「どうせ着ないじゃん」「センスが悪い」「古い」「物が多すぎ」「いつか使うっていつ使うのさ?」「なんでこんなものとっておくの!」

 

物の片づけに対する価値観が異なることは,思想的な価値観よりも表面化しやすく問題を起こしやすいのだ。

これはひとえに,子どもが「すっきりと片付いた方が良い,物が少ないほうがいい」という価値観の人が多く,
親は「物はたくさん持っていたい,物は多ければ多いほうがいい」という価値観の人が多いからに他ならない。

 

物の片づけに対する価値観の形成には,時代背景の関与するところが大きい。
親世代は,物不足の中,もったいない文化で育ったことにより,物を捨てることに対しての罪悪感を強く抱きがちであり,
「物をどんどん捨ててしまうと,自分自身のアイデンティティまで失ってしまうのではないか。」と危機感を覚える人もいるそうだ。
また,「余生を今までの人生を振り返りながら思い出のモノに囲まれていたい。」と願う気持ちもそこに介在している。
こうゆうようなことを,念頭に置く必要があるでしょう。

親子間のみならず,兄弟間,親族間,友人間で物に対する価値観においても,同じようなことが言えるでしょう。

趣味の物,好きな物,その人にとって必要な物......

 

まず,物の片付けに対する価値観が違うことを認めることから始めなければなりません。
「すっきりと片付いたほうが良い」と思っても,人の物を勝手に捨ててはいけません。
相手の意思を尊重して物を片付けるということが極めて重要です。
そうゆう過程を経て,「片付いた方が快適に暮らせる」ということを相手に理解してもらえるように努めるべきでしょう。

 

目的は「すっきりと片付けること」ではなく,「片付いたことで快適に暮らす」ということである。
すなわち,「すっきりと片付けること」は「片付いたことで快適に暮らす」という目的を達成するための手段に過ぎないのです。

 

生きる時間に比例して思い出と物が増えていくもの。
しかし,それに引き替え、体力は落ちていく。
片付けるべき時には片付けられなくなっている可能性がある。

 

「物はたくさん持っていたい人」でも,日頃から,「必要な物」「必要でない物」を区別するスキルぐらいはきちんと身につける必要がある。
物の片づけに対する価値観を明確にすることは,日々の生活を良くしていく上でとても大切だ。

アイドルという宗教を信仰するということ。

私は,乃木坂46というアイドルグループが好きだ。

アイドルとは,偶像であり信仰そのものである。

私は,乃木坂46オタクなので,乃木坂46という宗教を信仰している信者だ。
そして,私は「アイドル」という宗教の信仰を極めて肯定的に考えている。

なぜ、私がこう考えるに至ったのか?その理由を書いていこうと思う。

 

 

結論から言うと,

人間には魂の救済が必要だと感じるからである。

人は、「心の拠り所を,絶えず探している生き物」である。
心の拠り所とは、「心の支えになったり、それを守るために頑張ろうと思える存在」のことだ。
一般的に言われている心の拠り所は,恋人,友人,家族,仕事などのことだろう。
ただ,それでは満たされない人も多くいる。
そういう満たされない人の心の拠り所となるのがアイドル,アニメやゲームである。(他には,買い物とか,他者批判とかがありますね。)

 

よく言われるアイドルに夢中になる心理には,「快楽的欲求を満たすため」というものがある。
たしかに,そういった気持ちが全くないとは言い切れないかもしれないし,それを否定はしない。
しかし私は,アイドルに夢中になる心理は,「快楽的な欲求を満たすため」というよりも,

「かわいい女の子たちを見て,幸せな気持ちになる。」
「生きる気力がわいてくる。」
「応援してる子から元気を貰う。」という

『その子を純粋に応援し,愛する』という行為によって,精神的な幸福感を満たしたい気持ちの方が,多くを占めているように感じているのだ。

 

以前,私は,アイドルに夢中になるのは,疲れているとき,特に心が弱っている時だと書いた。

当時,私自身,学業とアルバイトが辛く,人間関係も上手くいかずで,精神的に追い込まれているときに,乃木坂46に出会い,魂が救われ,そこから乃木坂オタクとなった。
とは、「人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在」のことであり
救い(救済)とは、「現世(この世)における悲惨な状態が宗教にすがることで解消または改善されること」を意味している。
「心の拠り所」とは、言い換えれば魂の救済そのものである。
私は,アイドルが心の拠り所となったことで,幸福を感じるようになった。

つまり,アイドルを愛することには,魂を救済する力があるといえるのだ。

 

特に,アイドルのダンスパフォーマンス観たり,アイドルソングを聞いたりすることには,麻薬を使用したときのような効果があるのではないか。

 

私たちは,ふるい時代から,人々は唄や踊りに『救い』を求めてきた。
時代とともに,雅楽や神楽,民謡,童謡,唱歌,子守歌,演歌,歌謡曲などさまざまな歌や踊りが生まれてきたという歴史が,それを物語っている。
昨今の音楽チャートを坂道グループや、ジャニーズが占めているのは,もちろん,握手券商法、Type別商法により売り上げ枚数を稼いでいるからというのも強い影響があることだろう。それは否定しない。

ただ,本質的には,息苦しい社会や人間関係からの救済を求めている人が多く存在しているからだと思う。
人口減少が深刻化する日本において,自殺率は上昇しているという話をよく聞くがそれこそまさに,精神的に追い込まれて逃げ場がない人が増えている証拠である。

 

日本人は宗教に無関心だといわれるが,「アイドルやアニメキャラの○○ちゃんが好き。」とか「芸能人の○○さんが好き。推しです。」という,画面の向こう側の人への愛や信仰心を持つ人はたくさんいる。
日本人が,ここ数十年で、「宗教」と聞くと過敏に反応するようになっていまったのは,オウム真理教による「宗教=怖い」という認識が増えてしまったこと,金儲け主義の新興宗教が台頭したことによる「宗教=いかがわしいもの」とのイメージがついてしまったことの影響が大きい。

しかし,世界一古く長い歴史を持つ日本国において,人々の生活は宗教と共にあったではないか。精神的な救いを宗教に求めてきた過去があるではないか。
神道としてあがめる「神」、仏教の信仰対象として「仏」が,少しずつ形を変え,今では,アイドルやアニメキャラがその一翼を担うようになっただけのことではないのか。

何らおかしなことではない。

「宗教にすがることで魂を救済する」という原点に、ここで立ち返ってみようではないか。 

 

 

人は誰しも,誰かを応援する,愛することで自分を満たしたいという気持ちを持つ。
アイドルは,他者に応援される存在,愛される存在であることで,魂の救済をアイドルオタクにもたらしているのだ。
アイドルという宗教について深く理解すると,アイドルという存在を応援することは立派な「信仰のかたち」だと分かる。
だから私は,アイドルを信仰するという行為そのものが,とても高尚なことにさえ思えてくるのだ。

 

魂を救済する手段の一つとして,あなたもアイドルという宗教を信仰してみるのはいかがだろうか。