在宅死 ざいたくし
自宅で死を迎えること。現代の日本人は終末医療や介護を受けながら病院や施設で死を迎える人が9割近くに上る。在宅死は、病院死と対比的に用いられる。(日本大百科全書(ニッポニカ)より引用。)
つい先日,再放送されていた BS1スペシャル「在宅死 “死に際の医療”200日の記録」というドキュメンタリー番組を観た。
「お金がなくて施設に入れない。」
「介護する家族が身も心も疲弊してパンク寸前。」
厳しい在宅死の現実と向き合い続ける老医師 小堀鷗一郎医師による,在宅訪問の「老老医療」の話だ。
「家で安らかに最期を迎えたい」という患者の願いをどう叶えるのかについて200日間カメラが追い続けた,ありのままを伝えている。
敗戦直後の日本では,自宅で死を迎える人が圧倒的多数だった。今では医療施設で死ぬ人のほうが多い。
『病院で人生が始まり,病院で人生を終える。』ということだ。
しかし,人生の最期を自宅で迎えたいという人は増えてきている。
そうは言っても,超高齢社会の日本では,年老いた息子や娘が,年老いた両親を介護する「老老介護」が年々増加しているので,なかなかに大変...。
このドキュメンタリーに,103歳のおばあさんの話があった。
息子夫婦と50年同居している。肌にツヤがあり,とても103歳には見えない。
しかし,便が緩んでいて,何度もトイレに行くため,介護の息子は「夜が心配」と,2時間おきに様子を見ていた。
息子の妻は,熱心に介護する夫の体を心配していた。
家族は,夜の介護で疲れ果てているようだった。
...それから少し経ち,小堀医師は家族を楽させるためにショートステイを勧めた。
本人は在宅を希望した。しかし,施設への入所が決まった。家族は,施設での生活が長期になる事を,本人に伝えられていなかった。しかし,本人は入所が長引く事に気づいている様子だった。頭はまだ全然しっかりしているのだ。
おばあさんはこうおっしゃった。
「これでほっとした いつでも 喜んで仲間入りさしてもらいますので よろしくお願いいたします…こんなこと言ってね ニコニコしながら死んで行く人いるかな?いますか?…...」
・・・・この言葉に込めた意味とは一体...?...考えずにはいられない。
在宅死の理想は,
「在宅で死にたくて,家族もそれに付き添うことができて,それを手助けしてくれる医師が近くにいる。」ということじゃないかと私は思う。
ただ,必ずしも理想通りにはいかないのが現実。
「お金がないから,在宅でしか死ねない。」…かもしれないし,
「在宅で死にたいけど,介護する家族は疲弊していて在宅死に付き添うだけの余力がない。」…かもしれない。
誰にでも必ずやってくる「死」
昨今の実情を見ていると,長生きすることは,必ずしも良いことばかりじゃないようにも思えてくる。
だけどまあ,せっかく生きたなら,最期は満足のいく終り方をしたい。
そう考えるのは人として普通だろう。
人間が尊厳を保ちながら,幸せな最期を迎えられるような仕組みができていけばいいな。
小堀鷗一郎医師のような優秀な在宅医が,増えてくれるといいな。
そうゆう優秀な在宅医と家族に看取られながら,最期を迎えられるといいな。
死と向き合うことの恐怖は,健康な人にはわからない。
在宅死の中には,ここまで書いてきたような家族に看取られながら亡くなるというケースだけではなく,だれにも看取られずに亡くなる「孤独死」もあるだろう。
死に方にもいろいろな形がある中,医療費の抑制などの理由から今後増えていくであろう「在宅死」。
その「在宅死」の理想と現実。また,問題や課題とは?…。
自分の人生の終わり方について考える,いいきっかけになるかもしれない。
幸せな死に方ってなんなんだろうね。
答えを探す日々。
だけど,人生の最期を穏やかな気持ちで迎えられるのなら,もうそれ以上は何もいらないかもしれない。
本ブログを書くにあたって,参考にさせて頂きました。↓